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ヤドカリの話


ヤドカリの話 その1


タイトルなんのこっちゃですが、まあ知ってる人には解ると云う事で。
要するにvol.20にしてやっと観る事ができました夜会 vol.20 リトル・トーキョーです。ここしばらく夜会について書いてたのも、またぞろ観たくなって書き始めたらチケット当選したって事でウキウキしながらまとめてみたわけです。


んで、貧乏性のわしですから観てきただけで済ますわけにはいきません。観ながら感じた事、思った事、事後の反芻、色々書き連ねてみたいなと。本日にてめでたく千秋楽ですし。


まず最初に、曲について、から。セトリ全部は割愛しますが。


リトル・トーキョー

ひたすら耳に付く。70年代のショー番組のテーマだか宝塚風だかのような雰囲気。ダンスとも相まってまあ楽しそう。楽しそうなダンスなのに実は手でユーレイを表現する中島みゆき。展開上当然ではあるのだが、(少なくともパンフを購入した)観客には判っている事なので気づいた人も多いのではあるまいか。

野ウサギのように

振り付きではしゃいで唄う。ここで言う「あんた」は居着かない主人・文夫の事である。江國香織が主人を眠らせなかったエピソードも思い出す。関係ないけど。


テキーラを飲みほして

石田匠扮する「おいちゃん」がステージ「リトル・トーキョー」でシャウトする。夜会で二回も使われたのはこの曲ぐらいか?


紅灯の海

「真白き指先は 手招きするか 別れを告げるのか」というフレーズの解釈に目を見開く。わしが過去の夜会(映像)で何より楽しみだったのはこういう事である。以下、再記する。

「夜会」は「実験劇場」だと中島みゆきは言う。ここには少なくとも二つの「実験」がある。一つには、「詩」という千変万化なものに限定的な意味を持たせるという試み。Vol.3 KAN-TAN(邯鄲)では、本来政治的意味合いの強い「黄色い犬」を、「綺麗でしょ」に限定し虚飾/虚構に生きる女を演じた。Vol.4 金環蝕では、「やまねこ」で神がかり/憑き物を演じ、「真っ直ぐな線」で平らな胸を自虐的(?)逆説的に捉え、巨乳(超乳?)のストリッパーを演じてみせた。しかしこの点については、全ての楽曲が書き下ろしになった時点で霧散してしまった。中島みゆきの詩に魅入られてきた者としては少し残念な気がする。温故知新的な興味がなくなってしまったのだから。

つまりここでは、文夫を置いて(別れて)杏奴の元へ向かう芸妓・梅乃を表現していたのだ。うまい。うま過ぎる。


二隻の舟

あれ….パンフに書いてる字が違う…出てこねえし......

CDのは….また調べよう。

それはそうと、今度は「舟」を「縁(よすが)」に引きつけられる人々に喩えている。二隻じゃ済まないんだけどそれはともかく。もうね、どんだけ引き出すのか、どんだけ解釈広げるのかと。他にも色々盛り込まれてるし。この辺りの考察はまた。

CDの表記は隻でした。


放生

仏教用語なのね。

最後のみゆきのシャウトは圧巻。鳥肌立つわ涙止まらんわ。

中島みゆきは吟遊詩人であり、稀代のヴォーカリストである。声の力があり過ぎるから「夜会」が生まれたのだ、というわしの視点は間違っていないことを確信した。


さてとりあえずはここまでである。

次回以降、ストーリィを軸に考察してみたい。

考察、などと云っても、要するに感想と感覚に纏わる推測なのだが。




ヤドカリの話 その2


率直な感想を端的に示してみる。一休さんのパクリである。


みゆきといふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな


以前の文章で釈迦になぞらえてみたのだが、強ち間違いではなかったように想う。夜会から数日も経つが、全然まとまらないのだ。ストーリィを軸に推測するしかないのだが、なんとなく纏まって来た処にまた色々なものが絡みついてきて、結果纏まった結論に辿り着けずにいる。


序文として、一つ迷走加減を示してみたい。


曲「リトル・トーキョー」の雰囲気さながら、舞台はほぼ明るいイメージで進んでいく。辛い境遇ではありながら、様々な人々に囲まれ、姉との再会も果たし(しかもこのシーンで中島みゆきは素で笑ってしまっている)、自らは雪崩に遭い絶命してしまうが、幽霊となって現れ、おどけつつ話しかけ、最終的には皆を救う結果となる。全体として、明るく楽しい舞台進行と言って差し支えない。だがしかし、それは表向きのものでしかない。わしは狂気や恐怖にも似たものすら感じた。わしの頭がどうかしているのか?まあ元来、まともかどうかと言われればわし自身が首を捻るのではあるが、素直に「あ〜楽しかった」ものではあり得ない。主人公杏奴は死に、更に守り続けてきた「リトル・トーキョー」というステージは崩壊してしまっている。恋い焦がれた文夫は杏奴に気づく事も無く、梅乃と抱き合い去って行く。杏奴だけみれば悲愴としか言い様がない。ここでまたもやしかしなのだが、当たり前の感動もしっかりと感じているわしがいる。全体として、なんとなく納得のいく感動を味わいつつACTシアターを後にしたのだ。


こんな感覚と感想が数日来ぐるぐるわしの中を廻っているのである。全然文が進まないのも判ってもらえるだろうか。埒が明かないので少しずつ解き解してみたい。

































まずは、人物相関図である。登場人物は多数に渡り、かなり細かく設定されているが、意図的に抜き出した人物だけでも七名(正確には六名と一頭)もいる。

主人公・杏奴は父祖の家と土地、そしてそこに暮らす野生動物を守るため、そして姉・李珠が戻って来れる場所(ステージ:リトル・トーキョー)を維持するために計略結婚を受け入れた。

逆に夫となった文夫は計略結婚であるがためにオークマ/杏奴の傍には居着かず、東京で芸妓の梅乃と暮らしている。

だがしかしまた逆に、梅乃は文夫の異母兄で嫡子である権作の権謀術数を聞いてしまい、杏奴を守るために、偽名を使い近隣の獣医のもとで働きオークマに出入りするようになった。

杏奴の姉である李珠はミュージカル歌手として成功したが、これまた偽名を使いオークマに長期滞在の客として訪れる。

20km離れた近隣の農場主である笈河修身はロックバンドでメジャーデビューまで果たしたこれもまたミュージシャンであったが、父親の後を継ぐため帰郷している。リトル・トーキョーで心置きなく歌うのを楽しみにしており、配達の合間を縫ってはステージでギターを掻き鳴らし歌っている。

雪崩により急逝した杏奴の霊に連れられてやって来たのは人の姿をした子犬、小雪である。犬だからか幼いからか天衣無縫でありとてつもなく音痴でもあったが教育躾により成長する。

先代の執事であった三井徳衛は高齢にも関わらずオークマの支配人兼杏奴のお目付役として働いている。


表層だけをざっとなぞればこんな感じである。

三井→お目付→杏奴、と、李珠/笈河/梅乃→教育躾→小雪、であるとか、

杏奴→保護→小雪、と、梅乃→警護→杏奴、であるとか、

李珠と梅乃がともに偽名、であるとか、

様々な類似相似を綯い交ぜにしてはいるが、

詰まる処、ここに挙げた人物は全て「リトル・トーキョー」に縁を持ち何らかの形で携わる人々である。


閑話休題。この辺りは感心せざるを得ないのだが、多様な人物とその相関を見るにつけ、観客はそのいずれかにシンパシーを感じてしまうのだ。そしてその立場で物語を読み取ってしまうのだ。詰まる処、「中島みゆき」の感じ方になってしまうのだが、観客それぞれがそれぞれの立場で物語を感じる結果となるのだ。わし自身が誰に一番近いかはさて置いて、次回以降また話を続けることにしよう



ヤドカリの話 その3


リトル・トーキョーへの関わりを同じような図で示してみるとこうなる。









要するに、杏奴の作った「リトル・トーキョー」に、この七名が様々に携わっているわけであるが、まず、「リトル・トーキョー」とは何か、から考えてみたい。


杏奴は行方の知れない姉のために設えたステージに「リトル・トーキョー」と名付けたのだが、元来「リトル・トーキョー」とは日本以外の国での日本人町であったり日本製品店であったり、「東京でないもの」につけられた名称である。作中でもステージ「リトル・トーキョー」には東京らしきものは一切ない。歌詩の中ですら「東京にはない」だの「似ても似つかない」だのと明言されている。風光明媚な地方都市を「小京都」と呼んだりするが、「小京都」と「リトル・トーキョー」はこの点で全く意味が異なる。簡単に言えば、京都っぽさ、東京っぽさの「ぽさ」があるのが前者、無いのが後者だ。


中島みゆき自身が世界中にある「リトル・トーキョー」に触れ、何故「リトル・トーキョー」と名付けるのかとふと抱いた疑問、そこがこの物語の発端だと、みゆきはパンフレット中で述べている。「リトル・トーキョー」には、故郷、故国を想う望郷の念が込められている、これがごく当たり前の考え方だろう。しかし一般名として、またコピーとしても判り易い。誰がどう見ても日本の何かがそこにある、という意味で。


話は逸れるが、一般名/コピーとして判り易いがために一般化された言葉の一つが、「夜会」そのものである。中島みゆきが「夜会」を開催するまで、「夜会」はおよそ一般の言葉ではなかった。鹿鳴館だとか晩餐会だとかと同様の、歴史用語と言って差し支えない言葉だった。それが「夜会」開催以降、TV番組のタイトルになったり、普通に夜の宴会という意味の言葉になったりして一般化されている。女子会などという造語も、おそらくは「夜会」からの派生語なのではあるまいか。一般化という意味において類義語である「夜会」のサブタイトルを「リトル・トーキョー」としたのは、そんな言葉の拡がり方を面映く思ったからかも知れない。


さて話を戻そう。杏奴が「リトル・トーキョー」と名付けた理由は明言されてはいないが、そこには姉・李珠が望郷の念を抱いて帰るべき場所という意味と、望郷の念を抱いて欲しいという杏奴の願望が投影されているのだろう。父祖の土地、姉、つまりは「家」を護ろうとする杏奴の想いの象徴が「リトル・トーキョー」なのである。

そんな想いを知ってか知らずか、李珠は偽名で宿泊している。ミュージカル歌手として成功はしたがその生活の疲れを癒しに戻って来た体である。

笈河修身は一度は成功したミュージシャンだったが、家庭の事情で帰郷し家業を継いでいて、それでも歌う事は辞められないのだろう。事あるごとに「リトル・トーキョー」で歌い上げている。

三井徳衛は朝倉家への忠心を示すかのように老体に鞭打ちつつオークマで働いている。

文夫は自らが経営者であるオークマはもちろん、「リトル・トーキョー」にも、杏奴にも寄りつけなくなっている。

梅乃は寄り付かない文夫の代わりを務めるかのようにオークマに出入りし、笈河とともに「リトル・トーキョー」に上がって舞い踊る。

母を亡くした小雪は杏奴の霊に誘われ(かつ人の姿に変えられて?)、オークマで育てられる。

こうして見ると、「リトル・トーキョー」がそれぞれのよりどころとなっているように想える。唯一文夫に関しては、梅乃の存在がよりどころであり、むしろ「リトル・トーキョー」を遠ざけているのだが、それ以外は皆なんらかの形で「リトル・トーキョー」をよりどころとしているのではないだろうか。




ヤドカリの話 その4


誰より「リトル・トーキョー」をよりどころにしているのは勿論杏奴だろう。家を護るための自己犠牲の上に設けられたのだ。とは言え文夫に対してはちゃんと恋愛感情を持っており、計略結婚という経緯故にお互いうまく行かなかったという処なのだが。

「リトル・トーキョー」が杏奴そのものであるからこそ、行方不明から(霊となって)戻ってきた杏奴は「リトル・トーキョー」から現れたのだろう。ちなみに服の色、机や絨毯の色、室内のつらら、「リトル・トーキョー」でのダンス時の手つき、パンフへの明記(笑)、そんなもので観客は杏奴が既にこの世のものでは無い事を知っている。朝倉家が土地を大事にしたのは野生動物を護るためである。杏奴はそのためにつらら親子を助けようとして死に、更に死して尚、子犬を護り育てるために戻ってきたのだ。これが結果として、山崩れから皆を救うことになる。

一月ばかりの間に小雪は成長を遂げ、梅乃は正体を垣間見せる。この場面は特筆しておきたいのだが、小雪役の香坂千晶、梅乃役の植野葉子はともに宝塚歌劇団の出身である。当然二人ともダンス舞踊に関してはエキスパートである。梅乃が日本舞踊を小雪に教える段において、恐らくは同等以上に舞えるはずの香坂千晶は若干辿々しく舞っていた。ちゃんと下手に踊るという技があるのだ。宝塚歌劇団恐るべしである。

小雪は自然に還ったかに見えたが、再度「リトル・トーキョー」に戻ってくる。山崩れの危険を知らせるために。山崩れにより「リトル・トーキョー」は崩壊する。杏奴の文夫への想いも届かない。この場面で、「よりどころ」の意味が全く別物だと判る。ここまでひらがな表記で「よりどころ」と書いたのはこれが言いたかったからである。杏奴にとっては「リトル・トーキョー」は拠り所であった。三井徳衛にとっては依処だったかもしれない。しかし、笈河修身、梅乃、小雪にとっては寄り所に過ぎない。笈河とともに去っていった李珠にとってすら、寄り所だったのだ。誰より、杏奴が「大好きだった」文夫ですらも。自らの拠り所など、いくら親しかろうが血縁者であろうが想いがあろうが、他人にとってはただ掠めるものに過ぎないという絶望的な事実。なのに、そこに悲愴感はない。クライマックスで、杏奴=中島みゆきは「放生」を唄いあげるのだ。杏奴の意志で「リトル・トーキョー」が崩壊したのか、自らの拠り所を破壊したのか、と想える程に。少なくとも、杏奴は自らの拠り所に同感や共感は求めていないのは自明である。いやむしろ、同感や共感を否定しているのかも知れないとわしは想う。


何故そこまで想えるのか。その理由は次段に譲る。



ヤドカリの話 その5



ここまで「二隻の舟」についてほとんど書いてなかったのは、この段のためである。それぞれのシンガーがうねる波の様にサビ前をリフレインし、中島みゆきが大サビに入った瞬間、わしの脇腹を鳥肌が駆け上がった。ただの感動ではない。寒気、恐れにも近い感覚だった。何故そう感じたのか。


先にも書いたが、ここでの「舟」は「リトル・トーキョー」をよりどころとした人々の事である。アーティストとしての夢は潰えたがそこで唄う事を続ける笈河修身、ミュージカルスターである事も姉である事さえ隠して客として戻ってきた朝倉李珠、妻への愛情を持ちながらも芸妓と暮らしていた大熊文夫、愛人の妻を守るためにその愛人と別れ、出入りするようになった梅乃、親(犬)と死に別れ育てられることになった小雪。主要人物は皆、「リトル・トーキョー」で唄い、踊る。二隻では済まないのだが、それぞれのキャラクターは舟が港に停泊するように、「リトル・トーキョー」を寄り所として束の間の時を過ごすのだ。


元来、「リトル・トーキョー」とは、一言で言ってしまえば望郷の念から名付けられたものだろう。故郷を望み縁を求める人々の思い、それを表すティピカルな名称、それが「リトル・トーキョー」なのだ。これに類似したものが過去作にはあった。「vol.10 海嘯」での南方に移住した人々が故郷の縁を求めた紫の桜・ジャカランダである。そのジャカランダにより水上繭は自らの運命と使命に気づき、己れの身を賭して母と己れ自身を救う。望郷と拠り所は類義語である。望郷や拠り所に似た言葉が「二隻の舟」にはある。「舫綱」がそれだ。杏奴は「リトル・トーキョー」をよりどころにした人々を繋ぎ合わせ、自らを「リトル・トーキョー」、「舫綱」に擬えたのだ。それは繰り返すまでもない。だが、わしが感じたのはただそれだけのものではないように想うのだ。わしは恐怖、狂気に近い感動を得たのだ。ある種の自己犠牲の上に成り立つ他人の幸せ、その程度のもので寒気など感じる筈も無い。


中島みゆきが大サビに入った瞬間、何が起こったのか。

失礼を通り越しているかもしれないが、敢えて言ってしまう。稀代のヴォーカリストの声は、他のシンガーの声を掻き消してしまった。ゲスト的なシンガーの声すらも。その圧倒的な唄に感動したのだけでは無い。大体が周りを掻き消してしまっては、「拠り所」「依処」は勿論、「寄り所」としての唄い方すらあり得ないでは無いか。この大いなる矛盾、齟齬の何に感動したのか。


わしがそこに感じたのは、一つのメタファーである。少なくとも「二隻の舟」を唄うにおいて、中島みゆきは「よりどころ」とは全く違う立場に立っていたのでは無いか。波で舟を覆い隠すような、呑み込むような、舫綱を引きちぎるような存在として。そう、「海」そのものとして。


この少し前に「紅灯の海」が唄われたのを暗示的に受け取ったのかもしれない。この曲で「海」は「優しい」と唄われているのだが、ここでは舟を翻弄し呑み込む「海」である。

中島みゆきの二面性を表す唄が「二隻の舟」であることは以前にも述べた通りである。しかしここまで両極端な二面性が示されるとは想像を遥かに超える。一つにはこれに圧倒されたのだ。その圧倒を恐怖と捉える事に些かの間違いもなかろう。


自らが「拠り所」として設けた「リトル・トーキョー」は、他の登場人物にとっては刹那的な「寄り所」なのだ、舫綱などこちらから断ち切って押し流してあげるからいつまでもそこに居ないで立ち去りなさい、そこまで言い切っているのではないか。


潔く、清々しいまでの孤高と言って良いだろう。


しかし。わしにとっては恐怖と言って差し支えない。




ヤドカリの話 その6


この流れの中で、不覚にもわしはある漫画を思い出していた。中崎タツヤ「じみへん」の一編である。詳細を述べても面白くならないので要約する。中島みゆきの唄は人を励ますがみゆき自身を励ます事はないだろう(だからみゆきが折れそうな時は心配だ…と続く)、そんな要旨である。中崎のものの見方をわしは好むのだが、この辺りの描写はさすがだと想う。ギャグ漫画の上ではあるが、ここに示されている中島みゆきと観客との絶対的な乖離こそは真実そのものである。それ故わしはこの漫画を思い出したのであろう。この漫画にある乖離と、杏奴と他の登場人物の間にある絶対的な乖離は、同様と言って良いほどに相似形であるのだから。


ここまで考えてくると、恐怖すら感じた理由が朧げに見えてきた。

登場人物を波間に掻き消しつつ、拠り所と寄り所の絶対的な相違を見せつけられ、更には自らの拠り所の崩壊さえ表現されたのだ。端的に言えば拠り所の崩壊、破壊、更に言うならば否定である。わしが感じた恐怖は、わしの依処たる中島みゆきの、しかも当の本人による依処の否定に基づくものに他ならない。中崎タツヤの作中の人物ではないが、中島みゆきの詩に叱咤され、自我を肯定されたと感じたのは、幾度になるか幾曲に依るか、思い出す作業だけでも幾日必要になるか。わしが依って立つ何か、誰かはそこここにある。一言で言えばわしがあいする全てである。おかげさまというのもおかしいが様々なものを支え、拠り所、依処として生きている。その中に、中島みゆきの唄は確固として存在するのだ。その中島みゆきに、私はお前の依処ではない、お前の依処は脆い単なる寄り所ではないか、そう指摘されたような気がしたのだろう。わしは登場人物ではないし、理屈では判っているし、至極当然でもある。


だが、序盤で述べたように登場人物を介し観客はステージ上に取り込まれている。少なくともわしは、傍観者の立場ではなかった。独りよがりを承知で言うが、中島みゆきの意を汲む立場にいた。そして突きつけられた厳然たる真実。およそコンサートやライヴで座っていることなどほとんどないこのわしだが、夜会という場でなく、スタンディングで観ていたとしたならば、腰が抜けたようにへたり込んでしまったかもしれない。脇腹を駆け上がる鳥肌は、体幹トレーニングの甲斐もなく、容易くわしの腰を砕いてしまっていたであろう。海嘯のような重たい終わり方であれば、カーテンコール時の笑いがなければ、他に依処がなければ、暫く席から動けなかったかもしれない。


いや、他にも立ち上がれた理由がある。中崎の漫画を思い出した理由でもある。



ヤドカリの話 その7



昨年、2018年9月6日、北海道では初めてとなる震度7を記録した北海道胆振東部地震が起こった。詳細は割愛するが、多数の土砂崩れが起こった画像は記憶にも新しい。この災害が「夜会 vol.20 リトル・トーキョー」のモチーフとなっていることは想像に難くない。であるとすれば、同震災被災者への応援、励まし、エール、何でもいいが、そんなものが「リトル・トーキョー」のテーマにも含まれていると考えるべきだろう。


杏奴は自らの拠り所であった「リトル・トーキョー」の崩壊にも、全く動じていなかった。自らに気づかず愛人とともに立ち去る文夫に対してですら、想いだけを述べつつ見送っている。固執、愛執、そんなものは描かれていないのだ。「リトル・トーキョー」は、拠り所ではあっても依処ではなかった事がここで示される。


釈迦は拠り所、寄り所を含め全ての事物への執着を否定した。所謂「無我」と呼ばれる考え方であるが、ここで表現された杏奴は無我にも近い。ただし絶対的に異なるのは「想い」までをも否定はしていない事である。霊となった杏奴に残っているものは、想いであった。哲学者の言葉を捩れば、「我想う、故に我在り」である。杏奴に依処があるとすれば、想いそのものであった。その想いは杏奴だけの、自分だけのものであり、これこそが杏奴のレゾンデートルであった。


想いがあれば大丈夫生きていける、とまでは言ってはいないかも知れない。しかし想いを抱いて欲しい、そうすれば立ち上がることはできるかも知れない、そんなささやかなエールをもわしは感じた。依処は自分の中にこそある。だから。と。中島みゆきの唄は人を励ますという金言。そこには一片の疑いもない。悲愴な人生を描きつつも明るいステージ、の意味は、ここにこそあるのだ。


余談だが、この辺りは「邯鄲」や「金環蝕」に通じるものがある。と、考えると、文夫を待ち続けた姿は「花の色は…」に通じるし、「紅灯の海」と「二隻の舟」で示された二面性は「2/2」にも通じる。「海嘯」との共通項は先にも述べたし、杏奴と李珠の名前は安寿と厨子王の「今晩屋」にも通じる。北海道の生物という点では「24時着…」に通じるし、居場所の崩壊では「アルカディア」に通じる。「シャングリラ」、「問う女」、「ウインターガーデン」に通じるものも何かあるかも知れない。「夜会 vol.20 リトル・トーキョー」は集大成的なものも含んでいるのかも知れない。


終演後のカーテンコール、中島みゆきの挨拶。夜会のコンセプトと見方について冗談交じりに笑わせる。ちなみにこの文章のタイトルは渡辺真知子のエピソードトークに拠る。


なんとなく、夜会はこれが最後のような気がした。間違いであって欲しいのだが。



ヤドカリの話 その8


んでもって無事発売となりました夜会Vol.20リトル・トーキョー。

BD/DVDで絶賛発売中です。

夜会の映像を購入するのはVol.10海嘯以来となります。

生で観たものの残滓を新たにすべく、じっくり観直したわけですが、一つ、わしが感じていて詳細を書けずにいた事を思い出しました。


その2で、こんな事をわしは述べている。


曲「リトル・トーキョー」の雰囲気さながら、舞台はほぼ明るいイメージで進んでいく。辛い境遇ではありながら、様々な人々に囲まれ、姉との再会も果たし(しかもこのシーンで中島みゆきは素で笑ってしまっている)、自らは雪崩に遭い絶命してしまうが、幽霊となって現れ、おどけつつ話しかけ、最終的には皆を救う結果となる。全体として、明るく楽しい舞台進行と言って差し支えない。だがしかし、それは表向きのものでしかない。わしは狂気や恐怖にも似たものすら感じた。わしの頭がどうかしているのか?まあ元来、まともかどうかと言われればわし自身が首を捻るのではあるが、素直に「あ〜楽しかった」ものではあり得ない。主人公杏奴は死に、更に守り続けてきた「リトル・トーキョー」というステージは崩壊してしまっている。恋い焦がれた文夫は杏奴に気づく事も無く、梅乃と抱き合い去って行く。杏奴だけみれば悲愴としか言い様がない。ここでまたもやしかしなのだが、当たり前の感動もしっかりと感じているわしがいる。全体として、なんとなく納得のいく感動を味わいつつACTシアターを後にしたのだ。


大体の詳細はその7までで述べることができたが、一つ、おそらくは大事な事を書けないでいた。わしは「狂気」や恐怖にも似たものすら感じた、のだ。わしは「狂気」を漠然と感じながら、その根拠を示せず、結果言うだけでそのままにしてしまっていた。


ここに来て映像を観、わしが狂気と感じた事は必然でさえあり、一片の誤解もないとの確証を得た。現場でそう感じたわしの感性が正しいのか、そう感じさせたステージが凄いのかそれは置いておく。


「放生」を唄う途中、小雪が舞い戻ってくる。山崩れがホテル・オークマを襲う。リトル・トーキョーにいれば安全だと。狼狽する登場人物。山が崩れる。その刹那。杏奴は諸手を挙げた。山を誘うかのように。しかも。笑っていたのだ。喜びに満ちた顔で。ここまでは会場では見えなかった。わしの視力と席の角度では、中島みゆき=杏奴の表情までは見て取れなかったのだ。


映像を観て、改めて、鳥肌が立った。杏奴は、中島みゆきは、なんて怖い人なんだろう。様々な人々の様々な「寄り所」として維持してきたホテル・オークマ/リトル・トーキョーが崩落する瞬間に、笑顔なのである。


確かに、杏奴の本意は引き継いだ土地を自然保護区とし、動物を守る事である。この直前、夫である文夫は、建築物があっては自然保護区として認められないと語っている。逆に言えば、建築物さえなければ杏奴の願う通り、自然保護区として認められ、野生動物を保護することができるのだ。従って、山が崩れることは杏奴の願いを叶えるための僥倖に他ならない。ただし、「リトル・トーキョー」をよりどころとしていた人々の命さえ危険に晒した上、である。小雪の注進により命は大丈夫、と確信していたのかもしれないが、それにしてもリスクは大きすぎる。山崩れの後、生きてはいたものの、皆這う這うの体であった。文夫は血塗れにも見えるし、三井ともう一人の従業員は独歩不能である。


これを狂気と呼ばずして、なんと呼べばいい。究極のエゴイズムではないか。Egoistと自称して久しいわしであるが、足元にも及ばない。夜会では様々な形で内包するエゴイズム、狂気をさらけ出してきた中島みゆきであるが、周囲の人物の命が危険にさらされた状態で笑顔を見せるほどの狂気ではなかった。過去作でも自己犠牲はいくつもあったが、他人の犠牲を厭わないほどではなかった。それどころか、その状況で、笑顔なのだ。いくら既に雪崩の犠牲になっており、霊と化して念だけの存在になっているとはいえ。


更にこの後、「放生」を唄い上げる中島みゆき/大熊杏奴。

こうして流れの中で再考すると、その5で書いた、

”自らが「拠り所」として設けた「リトル・トーキョー」は、他の登場人物にとっては刹那的な「寄り所」なのだ、舫綱などこちらから断ち切って押し流してあげるからいつまでもそこに居ないで立ち去りなさい、そこまで言い切っているのではないか。

潔く、清々しいまでの孤高と言って良いだろう。”

に、些かの相違もないと確信できる。

やはりわしが感じた事は、正しかったのだろう。

中島みゆきは、怖い人なのだ。


もう一つ書き添えて、夜会 Vol.20 リトル・トーキョーに関する文を終わりとしたい。


ヤドカリの話 その9


当日の渡辺真知子の談を聞いていなければ何故このタイトルで夜会について書いていたのか全く以って意味不明であろう。映像も発売された事でもあり、ネタバレしても何の咎もなかろうと思われるので説明がてら記し、夜会Vol.20リトル・トーキョーに関する文を締めたいと思う。


カーテンコールの後、中島みゆきの挨拶があった。以前の夜会で、このようなトークがあったのかどうかは知らないが、みゆきは「夜会Vol.20リトル・トーキョーにようこそ」との言葉に続いて、恐らくは急に、渡辺真知子に喋るように促した。そこで渡辺真知子は、リハーサルの際のエピソードを語り始めた。第一幕の終わり、そして第二幕、杏奴はステージ/リトル・トーキョーの下から這い出してくる。そのためこの場面、何度も繰り返し練習が必要であったと。何度も何度も這い出してくる中島みゆき。そして一言。


「あたしゃヤドカリか!」


それは単に仕草、動きを擬えた言葉であったのかもしれない。穴蔵から這い出る姿は、成る程ヤドカリの様ではある。直喩的にみゆき自身の動きを言葉にしただけなのかもしれない。しかしわしはここに一つの暗喩を見た。それこそがここまでに書いてきた、リトル・トーキョー=寄り所である。


リトル・トーキョー=寄り所=仮の宿=ヤドカリの宿/殻


そういう意識がみゆきの中にあったのではないか。少なくとも、わしはそう感じた。ここまでの文章はこれに端を発すると言っていいだろう。これをヒントにステージから感じたものを纏めてみたのがここまでだ。中島みゆきの「自分ツッコミ」に触発された、と言って過言ではない。


が。よく考えてみるとなかなか複雑である。

「あたしゃ」という一人称。

ここにみゆき得意(と断言してしまうが)のマルチ・ミーニングがありはしないか。

一つは当然、「寄り所」としてのリトル・トーキョー=あたし、という構図。

つまりはヤドカリの「宿」。

これに対し、日本語そのもの、生物学的な意味でのヤドカリ=あたしという構図。

つまりは宿を借りる存在、自らも、リトル・トーキョーを「寄り所」とするもの。

杏奴自身が、リトル・トーキョーを寄り所と自覚していたという告白なのかもしれないのだ。

そうなると、杏奴が拠り処としていたのは、ホテル・オークマ/リトル・トーキョーではなく、リトル・トーキョーに馳せる己の想いそのものであったという事になるのではないか。


いわば「ヤドカリ」をヒントに解きほぐしてみたのが、ここまでの文章だったのである。


ついでに蛇足を一つ加えてみる。これは今日(2019.12.22)気づいた事である。

杏奴/文夫/梅乃の関係性について。

恐らくであるが、雨月物語の「吉備津の釜」がモチーフとなっているのではないか。原典では磯良は最終的に夫と妾を祟り殺すのでそこは全く違うのだが(笑)、その前の段階で、磯良は妾に付け届けしたり、見受けするための金を工面したりする。この姿勢は、杏奴を守ろうとする梅乃、文夫を梅乃に誘う杏奴のそれと類似しているのではないか。ちなみに妾は鞆の浦、あのポニョな灯台がある港、の遊女である。だからあのシーンで「紅灯の海」が唄われたのではないか。ちなみにわしが読んだ講談社版雨月物語の全訳注は青木正次氏によるものであり、氏は藤女子大学教授である。果たしてこれが偶然かどうか。推論として面白いのでとりあえず記して、この項を終わりとしたい。

 

 
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