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「夜会」と「二隻の舟」


殊中島みゆきに関しては、「歌詞」ではなく、「歌詩」との表現を使って来た。本邦では吟遊詩人という呼称は一般的ではないが、その表現で示されるのは彼女を置いて他にないというのがわしの持論である。


彼女の綴る言葉を「詩」と表現する理由は明確である。彼女の詩は、単純に捉える事が不可能だからである。隠喩だらけと言っても過言ではあるまいし、ダブルは当然、トリプルミーニングすらも珍しくは無い。だからこそ聴き手によって解釈が異なり、評価も千差万別なのである。


近年では「糸」がブームである。カヴァーの数も笑うほどに多い。中島みゆき本人が結婚式で歌われる事を笑いながらネタにしていたが、わしは正直困惑した。あんなにはっきりと「縦と横」で直交していると唄っているのに。「傷を庇う/暖めうるかもしれない」だの、「出会えることを 幸せと 呼びます」だのと唄っているのに。組んず解れつでもなければ、役に立つとも断言していなければ、共に暮らすことを幸せと言っているのでもない。「出会えただけでも幸せと思うべきなのだ」というペシミズムに溢れた唄、そう言っても極論ではなかろう。そんな唄と断言するのも憚られるのが中島みゆきだったりもするのだが、「そうとも採れる」唄を結婚式で歌うべきかどうか。


その意味でも、中島みゆきの唄は難しいのである。如何様にも解釈できてしまう「詩」なのだから。祝「詞」にはなり得ないのである。だからこそ「歌詩」なのだ、そう思っている。


「糸」に関してはFBで以下のように述べたことがある。


まあ確かにいい曲ではあるんですが。

「結婚式で中島みゆきが歌われる」と本人がネタにして笑うこの曲ですが、「EAST ASIA」を通して聴くと全くイメージが変わります。
同アルバムのエンディングではありますが、単体で聴くとエンディングに相応しい曲かどうか。この前が「二隻の舟」だからエンディングとして成立する曲、というのがわしの評価です。
「夜会」のテーマとも目される「二隻の舟」は、中島みゆきの随一の代表曲です(断言)。このドラマチックな詩こそみゆきの真髄と信じて疑いません。詩だけではなくアレンジも壮大で、初めて聴いた時の衝撃は今でも忘れられません。
その衝撃をほぐすように「糸」で終わるのが「EAST ASIA」なんです。「二隻の舟」と同じような内容を唄う詩でありながら、シンプルなアレンジで、いわば「二隻の舟」のアンサーソングが「糸」なんです。対にしてこそ、なんです。
ですから、この曲が単体で語られることにどうしても違和感を感じます。「二隻の舟」をほぐした「糸」なのですから。

それがみゆきさんの言う「不思議」なんじゃないかな〜

補足すれば、「舟」であったり、「糸」であったり、いずれにしろ「人」は脆弱なものであり、その関係性も微かなものに過ぎない、という点で全く一致しているのがこの二曲である。

全く違うのは、「糸」の方が直喩的で解り易い点である。だから通じ易く、数多受け入れられているのであろう。解り易い理由は簡単である。それは上にも書いてあるように、「糸」は「二隻の舟」のアンサーソングであり、「解釈の一つ」に過ぎない、からである。「二隻の舟」は繰り返すが中島みゆきの最高傑作である。敢えて言えば、「夜会」はこの一曲から派生したものでもある。この条件一つだけで、わしが最高傑作と断ずる理由として十分だろう。

ここまでで前置きである。次項ではこの曲、「二隻の舟」の基本的解釈を述べてみたい。





まず最初に、普通に読んだまま解釈してみたい。しかしその前にお断りするが、版権云々に触ると面倒なので、歌詩については明記しない。参考にされたい場合には「二隻の舟」でググっていただければいくらでも当たるだろう。

ざあっと纏めてみよう。

人とは生きている限り人との関わりを断ち切れない弱き者である。

思い悩む事さえいっそなくなってしまえばいいのに。

人と人はそれぞれが独立自立した存在である。

それでも想いの部分で繋がりあうことはできる。

そんな繋がりを俯瞰して揶揄されることもあるだろう。

人生が破綻することはあるかもしれないが、そこで幾ばくかのものは伝わるかもしれない。それで十分なのだ。

他人の想いが人生の糧であり、灯台でもある。

その程度の事を求めているだけなのに、様々な障壁が人生にはある。

そんな障壁だらけの中で、ただ揉まれるだけの儚き存在が人である。

人と人は別々の存在で微かな繋がりしかないが、一つのものにもなりうる筈だ。


読んだまま要約すれば、以上のようになろうか。

わしはこのままの解釈で一聴して感動を覚えた。脆弱な人がそれぞれ独立しながら、微かな絆だけを生きる糧とする、そう唄う声に励まされたようにも感じた。自嘲自虐も含めて言うが、現在でこそこの点は否定できるにしろ、少なくとも当時まで、人間関係が充実していたとは思わない。他人は疑うべき存在であり、否定すべき存在であり、忌むべき存在であった。現在ではここに例外が存在する、という注釈が加わるが根底では不変の真理でもある。しかし、そんな例外が在る筈だ、わしにはそう聴こえたのである。その意味では予言的な唄でもあった。事実として例外と呼べる存在に数多出会うことになったのだから。人を信じてはいけないという経験則の中で生きていても、信じるべき存在を求めていた事をわしは否定できない。頼りたいという甘えがあったことすら否定しない。そんな漠然と矛盾した感情論を明確に一つの唄とされたのが「二隻の舟」であった。

ややも自分と重ね合わせた恣意的な解釈だったかもしれないが、大意は外してないだろう。人は脆弱であり、脆弱であるが故に他者との関係を求め、それ故それぞれの関係も脆弱であるが、それこそが生きる糧でもある、という理解で良かろう。

個人的な感情論は別としても、他者との共鳴/同期/同調/シンクロニシティ、なんでもいいが、微かなそんなものこそが、人生を歩む糧なのだ、そういう詩である事に異論は挟めまい。「糸」では更に「出会うことが幸せ」と唄っている。微かな繋がりですら人生を歩む価値を生むのだから、直接に出会うことまで出来れば十分幸せではないか、そういう詩である。わしが「糸」をアンサーソングと評する理由はこれで十分だろう。

基本的な解釈はここまでで良かろうが、そこからの発展が凄まじいのがこの曲である。どう拡げてきたか、まずはそこを眺めてみたい。






「夜会」は「二隻の舟」から派生したものである、と言った。これを正しく言えば、中島みゆきの哲学を凝縮した曲が「二隻の舟」であり(だと思うから最高傑作だとわしは言う)、これを基に様々な物語を紡ぎ出したものが「夜会」である、という事になろう。言うなれば「夜会」は中島みゆきの哲学を部分的に吐露したものである。憲法と法律の関係に似ているとも言えよう。憲法は国家の哲学を文章化したものである。法律はその憲法/哲学を具体的かつ世俗的に示す一端である。「二隻の舟」は中島みゆきの哲学を曲にしたものであり、「夜会」はその一端を示す物語であり、ショーなのである。

ここには中島みゆきのアーティストとしての才能と、エンターテイナーとしての狡猾さが共存している。自らの哲学からセルフインスパイアしたかのように、ステージ上で「二隻の舟」を供覧するのだ。「こんな解釈もできますよ」とでも言いたげに。自分で創った詩なのに。

中島みゆきは詩人である。

だから、詩を創った際にはその内容や意味には無自覚なのかもしれない。谷川俊太郎が述べている通りに。

「二隻の舟」を書いた。その結果、己の哲学が凝縮されていた。唄ってみて読んでみて、新たな解釈、新たに気づく己の想い、そんなものが日々生まれてくるのかもしれない。そしてそれを舞台に上げた。それが「夜会」なのではないか。わしはそう推察している。

幾つか例として挙げてみよう。

Vol.3 KAN-TAN(邯鄲)では、老いさらばえてもなお人恋しさを捨てきれず、悟るどころか狂気に至るやも知れぬ業を。

Vol.4 金環蝕では、悲しみ打ちひしがれる者と、光を照らす者が対立する者どころか別個の者ですらなく、一個の者に内包されている事を。

Vol.7他 2/2では、一個の人物に内包された別個に見えてその実同一の人物を。

Vol.10 海嘯では、人生が破綻に至るその序曲として。

Vol.13他 24時着では、激流に抗って遡る鮭を舟に見立て。

Vol.15他 今晩屋では、唄われてはいないが、母と子らが「二隻の舟」で離れ離れになる「山椒大夫」をモチーフとして。


こんな風に「二隻の舟」は解釈、使用されているのである。前回の基本解釈からどれだけ逸脱している事か。いや、基本解釈という言葉は既に、烏滸がましくさえある。幾らでも解釈に耐えうる真理を示したものとすら思える。一つの唄、というよりもむしろ教典の方が近いかも知れない。ブッダの哲学をまとめたものが阿含経典なら、中島みゆきの哲学をまとめたものが「二隻の舟」と言っても言い過ぎではあるまい。

そしてここからが本題である。次項より、いくつか仮説を立ててみたい。





出典は手元になく、今、確認できないが、中島みゆきはインタビューが苦手な理由に関して述べていたことがある。インタビュー/対話の表記、要約に関する言述であった。具体的な言葉を取り留め/脈絡なく短絡されることが多いのでインタビューは苦手であり、そんな短絡よりも、みゆき自身の言葉を使わなくても良いから、大意を要約してもらう方がよほどましだ、そんな内容だった。

その中で、例として述べられていた事に注目したい。ここで挙げられた例は、以下のようであった。「赤いポスト」という詩があったとする。みゆきが「赤いポスト」と詩に認めたイメージと、聴衆の想う「赤いポスト」が違っていたとして、そのギャップをみゆき自身が埋めたくはない、その点=解釈は聴衆に任せたい。そんな例だった。

わしはここに中島みゆきの二つの信念を認める。第一には、中島みゆきの唄は詩である、という事。自身の詩人としての責任、自負である。詩を唄に乗せているのだ、という自覚。第二には、詩だからこそ、詩人自身が説明してはならない、という矜恃。読者/聴衆にその解釈を任せなければならないのだ、という自重である。

しかし。中島みゆきは歌手でもあり、エンターテイナーでもある。ここは完全に推測だが、中島みゆきは歌手/エンターテイナーとしての中島みゆきに、不足不満な部分を強迫的に感じていた時期があったように思える。あくまでも、中島みゆきが自覚的に。具体的には1985〜1990年頃であろう。

まず、これは誰しもが認める処であろうが、中島みゆきの声質である。聴こえる声=リズムの良さは、本邦史上でも五本指に入るレベルなのに、自身の声のオリジナリティに不安を覚え、「ご乱心」して甲斐よしひろ/NY mixに委ねた。この結果、声の質はともかく、リズムは絶対的であるという確信、敢えて言えば安心を得たのであろう。どれだけ声の音量を落としても、ちゃんと聴こえる声である事は傍目にも明らかであった。

もう一つ、これがつまり本題にも繋がるのだが、エンターテイナーとしての要素である。歌手/エンターテイナーの本分として、自分の想いや詩の意味を伝えなければならない。そこに不安を感じていたのではないか。つまりは、自分の言いたいことが伝わっていないのではないかという疑念、敢えて言うが強迫観念である。

中島みゆきの、あるいは、吟遊詩人のパラドックス、と言っても良いかもしれない。中島みゆきが詩を唄うからこそ生じるジレンマとも言えるだろう。詩である以上、見たまま読んだままの言葉の意味ではない。しかし唄でもある以上、言葉は聴いたままの意味に捉えられがちである。更には中島みゆきの唄の強さ=聴こえる声が、聴こえる言葉そのものの意味を増強してしまう。結果として、隠喩やダブルミーニングで隠された本来の想いが逆説的に届きにくいのである。

そのジレンマを解消する手段が、「夜会」であったのではないか。

演劇表現=ビジュアルを取り入れることにより、敢えて詩の意味を限定的に狭め、テーマを明確に伝えようという試みである。

「夜会」は「実験劇場」だと中島みゆきは言う。ここには少なくとも二つの「実験」がある。

一つには、「詩」という千変万化なものに限定的な意味を持たせるという試み。Vol.3 KAN-TAN(邯鄲)では、本来政治的意味合いの強い「黄色い犬」を、「綺麗でしょ」に限定し虚飾/虚構に生きる女を演じた。Vol.4 金環蝕では、「やまねこ」で神がかり/憑き物を演じ、「真っ直ぐな線」で平らな胸を自虐的(?)逆説的に捉え、巨乳(超乳?)のストリッパーを演じてみせた。

しかしこの点については、全ての楽曲が書き下ろしになった時点で霧散してしまった。中島みゆきの詩に魅入られてきた者としては少し残念な気がする。温故知新的な興味がなくなってしまったのだから。

そしてもう一つは、先にも述べた通り、中島みゆきが中島みゆきだからこそ抱えるパラドックス、ジレンマの解消であろう。そのための試み=実験として、「夜会」においてはエンターテイナーたる中島みゆきに重きを置いてみた、のではないか。芝居もダンスも、エンターテイナーとして何かを伝える手段として。テーマを明確にする手段として。

纏めてみれば、「夜会」は詩人たる中島みゆきのエンターテインメント・ショーであり、己の詩を様々解釈してみせ、またテーマを明確に示してきたもの、と言えるだろう。





こう考えてきて、やっと本題その一として、「二隻の舟」にもう一つの解釈が生まれる。「2/2」「24時着 0時発( 24時着 00時発)」を例にとって考えれば解りやすい。両作品はいずれも一人の人物にある種相反する二人の人格が存在していた。これになぞらえて考えれば、「二隻の舟」とは、どちらも中島みゆきである、という解釈である。

中島みゆきには詩人たる人格と、エンターテイナーたる人格が混在している。二つの人格は、幾ばくかのジレンマ、相反を抱えながら共存している。それを唄ったのが「二隻の舟」ではないのか。中島みゆきが唄っているいるのだから、「詩人のみゆき」も「エンタのみゆき」も、当然唄っている。どちらかが躓くことはあっても、その他方は唄っていける。模索しながらも「愛を詩う」「生を詩う」ことに変わりはない。いずれにしろそれら全て「中島みゆき」なのだ、こう理解することはできないだろうか。

この解釈で詩をなぞってみよう。

詩人と歌手、いずれの人格においても人に解って欲しいという欲求は消えない。

いっそ伝えられないと開き直れれば良いのに。

それぞれの人格は例えるなら二隻の舟である。

別々の人格には見えるが、同じように唄っている。

俯瞰して「伝えられないのが当たり前なのに」と嘲笑い、中島みゆきが破綻するのを待ち焦がれている様な者すらいる。

詩人/歌手の一方は破綻し、他方に悪影響を与えることもあるだろう。しかしそれが中島みゆきなのであり、そう信じる事で活動は続けられる。

それぞれの人格は鬩ぎ合いながらも共鳴し共存している。それが中島みゆきが中島みゆきたる所以なのだ。

二つの人格を共存させる事は不可能ではないはずだ。なのに容易くはできない。二つの人格それぞれは翻弄されるままに活動を続ける。吟遊詩人たる中島みゆきとして。

いかがだろうか。遠回しな、しかしみゆきらしい自己紹介/自己分析と捉えられはしないだろうか。

しかしこれで終わりでは無い。「夜会」の至上命題を考慮すれば、更にもう一つの解釈が生じて来るのである。




「夜会」はテーマを明確に伝えるための実験的なショーである。であれば、そのテーマ曲と目される「二隻の舟」にもそのテーマは含有されている筈である。テーマの一方、いや、「一隻」は、詩人と歌手が乖離してしまいがちな、吟遊詩人たる中島みゆきの自己同一性である。そしてもう「一隻」は何か。

「夜会」はテーマを明確に伝えるための、と書いた。

では、誰に。

もちろん、聴衆である。観客である。リスナーである。一括りに「ファン」と言ってしまっていいだろう。

穿ち過ぎなきらいは認めて敢えて言う。「夜会」の最大のテーマは、中島みゆきとファンとの関係性である。「詩」に込めた中島みゆきの「想い」とファンの「理解」が乖離しがちであるという一種の悲劇こそがテーマなのである。中島みゆきとファンとの間の距離、乖離を狭めよう、あわよくば一致させようという試みが、「夜会」なのだ。従って、「夜会のテーマ」たる「二隻の舟」にその意味が込められていない訳がない。つまり、「二隻の舟」の一方は吟遊詩人、中島みゆき自身であり、もう一方はファンであると解されるのである。「わたし」は、当然ながら中島みゆき、「お前」はファン、なのだ。また逆に、「わたし」が聴衆であり、「お前」が中島みゆきと解される処もある。この辺りの双方向性に、中島みゆきの詩人を感じずにはいられない。

この視点に立って、解釈してみよう。

歌い手として幾年も活動してきた。しかし伝えたい想いが伝わりきらない寂しさはいつまでも続く。どこまで活動を続ければそんな寂しさを感じなくて済むようになるのだろう。

自分の想いはそれ程に叶わないものなのだろうか。そんな想いを忘れられるようになればいいのに。

中島みゆきとファンは言わば二隻の舟のようなものだ。暗転したコンサート会場の中にそれぞれが確かに在る。ステージ/客席と明らかに隔てられてはいるが、同じ唄を唄っている。

側から見れば、脆弱な関係性かもしれない。勘違い、独善、そう嘲るものすら在るだろう。

中島みゆきが唄えなくなったら、ファンは少しでも悲しんでくれるだろう。そう想えばずっと唄い続けることができる。

中島みゆきの声はファンに届ける。ファンの想いを中島みゆきは汲んで行く。それこそが唄い続ける糧なのだ。

想いを伝えたい、ただそれだけなのに、中島みゆきとファンの間には様々な障害、障壁、干渉があり、想いは翻弄される。

中島みゆきとファンはそれぞれが自立独立しているが、互いの敬意は同一であり、想いを一つにすることもできるだろう。


こういう解釈は如何だろうか。的を得てはいないだろうか。わしの思い込み穿ち過ぎと単に片付けられるものだろうか。発表から二十余年にしてやっと気付いたか、と嗤われる話かもしれない。わしにできるのはこの程度の解釈に過ぎないかもしれない。わしに解釈し得るのは氷山の一角に過ぎないのかもしれない。中島みゆきは、文学には浅いわしの想像理解を遥かに超える詩人であるかもしれない。とりあえず解釈できた部分だけを羅列してみた。

と、ここで一つ話を戻したい。近頃TV放送された夜会VOL.16 「~夜物語~本家・今晩屋」を観て確信を得たことがあるからだ。





先にも述べた通り、Vol.15、Vol.16の「今晩屋」で「二隻の舟」は唄われていない。その理由は「二隻の舟」に親子が生き別れて云々と簡単にだけ記載しておいたが、ちゃんと観て確信を得たので訂正する。

まず、山椒大夫をモチーフとされてはいる。山椒大夫のストーリィをかいつまんで述べると、安寿は、山岡大夫により母と「二隻の舟」で生き別れることとなり、山椒大夫の下、弟・厨子王と共に奴婢として働き、厨子王を逃す際に「入水」する。いわば、母とは「二隻の舟」で別れ、弟とは「二隻の舟」の様に運命を分かたれるのである。ここで、後者の「二隻の舟」を敢えて説明するが、この場合は曲「二隻の舟」である。運命に翻弄される様といい、想いを託し別離に至る様といい、「二隻の舟」の詩に酷似している。山椒大夫をヒントに「二隻の舟」を書かれたのだと言われて誰が反論できようか、それほどの酷似である。この辺りの真実は中島みゆき自身しか知らないことだろうが、いずれにしろ、ストーリィ展開は同じといっても良いだろう。

次いで、「今晩屋」では何より安寿の死にスポットが当てられている。山椒大夫に限らず、説話・さんせう大夫でも童話・安寿と厨子王でも、安寿は厨子王を逃して入水する。端的に言えば犬死にである。わしが想うに、中島みゆきの最も忌み嫌う言葉が「犬死に」であろう。中島みゆきが絶対的に譲らないのは、「生の肯定」である。「生を肯定するために」唄い続けているのだ。如何なる生/人生にもすべからく意味はあるべきだ、中島みゆきはそれを唄い続けているのだ。「金環蝕」でも唄われた「エレーン」では、世間はそれを否定する事、すなわち生きていることを肯定できないと誰もが知っている、と詩っている。中島みゆきはそれを絶対肯定できない。否定している。「エレーン」はそういう詩である。

ラスト・シーンでみゆきは唄う。閻魔の鏡は残されたものの涙だと。罪を裁く鏡ではなく、喩え犬死にと揶揄される様な死であろうと、その死を嘆くものの心があると。それが生きた証でなくてなんであろうか、と。逆説的ではあるが、これが生の肯定でなくて何であろうか。そして、冒頭の基本解釈〜人生が破綻することはあるかもしれないが、そこで幾ばくかのものは伝わるかもしれない。〜と、なんと一致することか。

こうしてみると、「今晩屋」は「二隻の舟」の基本解釈ほぼその通りである。だから敢えて、「二隻の舟」は唄われなかったのだろう。口説いと思ったのか、言うまでも無いと思ったのか、「二隻の舟」を唄ったらそれだけで済んでしまうと思ったのか、いっそ「二隻の舟」のリズムやメロディを変えてこの一曲だけで「夜会」を作ってみようと思ってやっぱり軌道修正したのか、この辺も自身でなければ判らない部分である。

この段は追加である。基本解釈に間違いがないと思われたので敢えて追加した。

以下、まとめに入ろう。




まず大前提として、もう一度断言しておきたい。


1.中島みゆきは自らの詩を唄に乗せる吟遊詩人である。

詩である以上、単純な言葉のままの解釈では不足であるが、それを説明するのを潔しとしないのも詩人・中島みゆきである。このジレンマを解消するために行われたのが「夜会」である。従って、

2.「夜会」は、中島みゆきの、詩人としての側面と、エンターテイナーとしての側面を一致させる試みである。

テーマの明確化により、敢えて詩の意味を限定化し、直接的に詩人からファンへの意思疎通を企図したものなのである。更に、

3.「夜会」は中島みゆきとファンの間に生じる齟齬を埋めるための試みでもある。

ビジュアルを利用しテーマを明確化し、より詩を理解し易いものとしているのだ。従って、「夜会」のテーマたる「二隻の舟」にも2.および3.の意味が反映されていると解するべきである。故に、「二隻の舟」を解釈するにあたり、以下のものが挙げられる。

a.普遍的、一般的な人と人との関係を詩ったものである

 人と人との関係性は脆弱であるが、わずかな関わりこそが人間関係なのであり、その人間関係こそが人生の糧なのである、というもの。

b.中島みゆきの二面性を詩ったものである

 中島みゆきは吟遊詩人かつエンターテイナーであり、背反する場面もあるが中島みゆきの自己同一性の中に含有されている、というもの。

c.中島みゆきとファンとの関係性を詩ったものである

 完全なる意思疎通はできないにしろ、強固な絆で結ばれている、というもの。


このように「夜会」「二隻の舟」は解釈されると思うのだが、如何だろうか。


最後に、それぞれの解釈を再掲して終わろうと思う。


で、誰がこれ読んだんだ?(爆)






人とは生きている限り人との関わりを断ち切れない弱き者である。

思い悩む事さえいっそなくなってしまえばいいのに。

人と人はそれぞれが独立自立した存在である。

それでも想いの部分で繋がりあうことはできる。

そんな繋がりを俯瞰して揶揄されることもあるだろう。

人生が破綻することはあるかもしれないが、そこで幾ばくかのものは伝わるかもしれない。それで十分なのだ。

他人の想いが人生の糧であり、灯台でもある。

その程度の事を求めているだけなのに、様々な障壁が人生にはある。

そんな障壁だらけの中で、ただ揉まれるだけの儚き存在が人である。

人と人は別々の存在で微かな繋がりしかないが、一つのものにもなりうる筈だ。


詩人と歌手、いずれの人格においても人に解って欲しいという欲求は消えない。

いっそ伝えられないと開き直れれば良いのに。

それぞれの人格は例えるなら二隻の舟である。

別々の人格には見えるが、同じように唄っている。

俯瞰して「伝えられないのが当たり前なのに」と嘲笑い、中島みゆきが破綻するのを待ち焦がれている様な者すらいる。

詩人/歌手の一方は破綻し、他方に悪影響を与えることもあるだろう。しかしそれが中島みゆきなのであり、そう信じる事で活動は続けられる。

それぞれの人格は鬩ぎ合いながらも共鳴し共存している。それが中島みゆきが中島みゆきたる所以なのだ。

二つの人格を共存させる事は不可能ではないはずだ。なのに容易くはできない。二つの人格それぞれは翻弄されるままに活動を続ける。吟遊詩人たる中島みゆきとして。



歌い手として幾年も活動してきた。しかし伝えたい想いが伝わりきらない寂しさはいつまでも続く。どこまで活動を続ければそんな寂しさを感じなくて済むようになるのだろう。

自分の想いはそれ程に叶わないものなのだろうか。そんな想いを忘れられるようになればいいのに。

中島みゆきとファンは言わば二隻の舟のようなものだ。暗転したコンサート会場の中にそれぞれが確かに在る。ステージ/客席と明らかに隔てられてはいるが、同じ唄を唄っている。

側から見れば、脆弱な関係性かもしれない。勘違い、独善、そう嘲るものすら在るだろう。

中島みゆきが唄えなくなったら、ファンは少しでも悲しんでくれるだろう。そう想えばずっと唄い続けることができる。

中島みゆきの声はファンに届ける。ファンの想いを中島みゆきは汲んで行く。それこそが唄い続ける糧なのだ。

想いを伝えたい、ただそれだけなのに、中島みゆきとファンの間には様々な障害、障壁、干渉があり、想いは翻弄される。

中島みゆきとファンはそれぞれが自立独立しているが、互いの敬意は同一であり、想いを一つにすることもできるだろう。



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